卓球は迂回してライフスタイルの話題へ。レディース世代の卓球選手の過去・現在・未来がわかるインタビューコンテンツ「今月の卓球レディース」。8月のゲストは日本生命レッドエルフ監督の岸田聡子さんです。7年にわたる聡子さんの中国留学奮闘記をどうぞ。
はからずも日本人の代表格へとまつりあげられ
世界と卓球の情勢が激動した90年代初頭、「卓球は根暗」という言葉に過剰反応することもなく、パステルカラーのウエアに袖を通すこともなく、卓球ディナーショーという興行にド肝を抜かれることもなく、日本卓球界の喧騒を離れた場所で、卓球に打ち込んだ少女がおりました。現日本生命レッドエルフ監督の岸田聡子(45)さんです。
当時15歳だった聡子さんは、中国出身の選手が日本で活躍する姿を見て、「中国へ行った方が早く上達するのでは……」と中国留学を英断。日本の高校へは進学せずに、北京の体育専門学校「北京什刹海体育运动学校」に入学しました。
中国語は「ニーハオ」と「シェイシェイ」しか知らない。親元を離れたことも、外国へ行ったこともない。そんな聡子さんでしたが、言葉や文化の壁は意外と低かったようで、2週間で練習場内の会話や雰囲気についていけるようになったというから驚きです。
さすが10代、いや、さすが聡子さん。
しかし、留学初日から聡子さん自身、想像もしなかった問題に頭を悩ますことに。
それは……「北京でのスター扱い」。
「当時の北京には、私のような留学生がいなかったんです。学校には外国人を見るのも初めての子たちばかり。私は特別な存在だったと思います」。
初登校の日は、全校生徒が校門の前で拍手をしながら聡子さんを盛大にお出迎え。翌朝は食堂で日本人をひと目見るために大行列ができたのだとか。
「朝ごはんを食べに行ったら、私を見に来た団体が手を振ってくれるんです。(団体が)やっと帰ったなと思ったら、次の団体が来て手を振ってくれる。行列が途切れないんです。手を振り返してたら、ご飯を食べる時間がなくなってしまいました」。
続けて「私はパンダのような存在だったと思います」と語る聡子さん。
東京では上野動物園でトントンが人気を博し、規模は違えど北京では「日本人・聡子岸田見学ツアー」が連日大盛況。それは校内にとどまりませんでした。
「卓球仲間の家に遊びに行くと、その子が親戚とか人をいっぱい呼んでいるんです。子供だけじゃなく、大人にとっても外国人は珍しい存在でしたから」。
30年前の中国は、客人が食べたことがない料理でもてなすのが最高の接待らしく、サンショウウオ、カブトガニ、コブラ、サソリなどを使った料理で聡子さんを熱烈歓迎。日本の生活では味わえない貴重な満漢全席を堪能させてくれたそう。
ほかにも日本人というだけでテレビ取材を受けたり、芸能人や社長さんを紹介されたり、そんなチヤホヤフィーバーのなか、聡子さんは、それまで経験したことがないプレッシャーに襲われました。
「みんなが私に注目するから、ちゃんとしてないと日本人のイメージが悪くなってしまうんじゃないかって……」。
「日本人はまじめ」その期待にこたえ続けた7年間
全校生徒・その親族・その界隈の人々が、人生で初めて出会う日本人、それが聡子さん。不真面目にしたり、態度が悪かったりしたら「これだから日本人は……」と言われるのではないか? 聡子さんは、そんな強迫観念から品行方正&質実剛健の仮面をかぶるようになり、その仮面を24時間×365日×7年間、外すことはありませんでした。
週に2回行われる午前練習後のトレーニングでは、陸上競技場の外周を一人で懸命にダッシュ。同級生が先生の目を盗んで、競技場内を突っ切りショートカットしても、一緒になってサボることはありませんでした。
「私の場合は先生だけじゃなく、みんなが私を見てるので、トレーニングも練習も一切手を抜くことができないんです」。
その仕方なしの努力が実り、周りの人たちに「日本人は真面目だね!」と好印象を与えることに成功。同時に卓球の技術もレベルアップしました。大学3回生の時には、全日本社会人卓球選手権大会でベスト8に入ることも。1年後は大学を卒業して卓球キャリアの道へ進むと誰もが期待したのですが、聡子さんはここで足が止まったといいます。
「強くなろうと思って中国へ行ったはずなのに、『日本人は勤勉でまじめだね』と言われるのに必死すぎて、中国留学の目的がだんだんおかしくなってきました。それほど強くもなれなかったので、選手として卓球を頑張る人は私でなくてもいいんじゃないか、日中間で中国語を使った仕事をした方が社会の役に立つんじゃないかと思うようになりました。それまで自分よりも中国語が上手い外国人に出会ったことがなかったので」。
そう言って思いを馳せるのは小学生時代。海老名市にある名門チーム・リトルキングスに在籍中は、ちょっぴり大人をなめていたおちゃめな少女だったとか。練習中に水を飲みに行くふりをして、外で涼んでサボったり、気分が乗らなかったら適当に打ってミスしたり、自由気ままに卓球をしていた。その頃の素の自分に戻りたくなったのです。
ところが……
「毎日の積み重ねで7年もまじめを続けていたら、もうまじめが板についてしまった。以前の自分がわからなくなってしまったんです。おもしろくない人間になっちゃったけど、父が全日本社会人ベスト8を思いのほか喜んでくれたので、卓球を頑張って良い成績を出して留学を応援してくれた家族に恩返しをしたいという気持ちになりました」。
もう一度卓球を続ける覚悟を決めた聡子さんは、大学卒業後、日本生命に入社。今度は「中国に行ってたから~」と言われないように、日本での卓球キャリアスタートに襟を正しました。試合の前後は相手、審判、コーチに一礼するという日本独自の儀式も不慣れながらこなしたそうですが……。
「ちゃんと(一礼)できたっけ? とか試合とは全然関係ないことが気になって、集中が途切れることもありました」。
日本に戻っても変なプレッシャーと戦い続ける聡子さん。もしや、まじめの仮面が本当に外れなくなったのでは? と思い、最後に「おちゃめな子供時代の自分に戻る瞬間はもうないのですか?」と尋ねると。
「家にいるときですかね? 家に帰るとうちの夫は優しいから」とさらり。
あらま、おいしゅうございます。
コブラやサソリではなく、旦那さんの優しさで心の栄養をとってらっしゃるんですね。そういう意味では私、最後のセリフがたいへんおいしゅうございました。
って、あれ……これは岸田さんではなく、岸朝子さんのインタビューでしたっけ?
岸田聡子
1977年生まれ。北京体育大学卒業後、日本生命女子卓球部へ。全日本社会人卓球選手権大会シングルス優勝、全日本卓球選手権大会シングルス3位、アジア競技大会女子団体3位。現在は日本生命レッドエルフの監督として選手の育成・指導・サポートにあたる。